藤白神社鈴木屋敷
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 藤白神社の敷地内には、平安時代に熊野から藤代の地に移り住み、約122代続いたと言われる鈴木氏の屋敷跡があります。ここを拠点に全国3,300あると言われる熊野神社を建立し、熊野信仰を広めました。神武天皇東征の時、鈴木家の祖先が天皇に稲を献じたので「穂積」という姓を頂いたが、この地では稲を積み重ねたものを「すずき」と言ったことから「鈴木」になったと言われています。また、熊野権現の神木ナギ枝に鈴を付けて、神武天皇一行を案内したことに由来するという説も。ちなみに、衣川で源義経と討ち死にした家来の鈴木三郎重家と、亀井六郎重清兄弟も藤白地区の出身。義経がこの地を訪れた時の義経弓立松や曲水泉式庭園も有名です。和歌山の戦国武将であり、鉄砲集団・雑賀衆の頭領である雑賀孫市も本名は鈴木です。境内には家系図や古文書などを披露しています。

鈴木サミットの経過 (鈴木姓のルーツ)

昭和55年(1980年)
 NHK・正月特別番組で鈴木健二アナウンサー担当≪全国鈴木さん初詣で≫と題してJR特別列車を天王寺駅から海南駅まで走らせ、藤白神社参詣風景が放映され、鈴木姓のルーツが話題になるきっかけとなりました。

平成10年(1998年)第一回全国鈴木サミット
 秋田県羽後町にある源義経の家臣、鈴木三郎重家の家系を継ぐとされる鈴木家で開催されました。会場となった鈴木宅は昭和48年に『国指定重要文化財』となっています。文化財の指定をうけた建物は鈴木三郎重家が秋田に落ちのび、土着帰農して800年の歳月を経ており、数百年の風雪に耐えるものの老朽化が一段と進み、町、県、国へと陳情を重ね、昭和56年に解体修理工事が開始され一年半を経て復元工事は完成しました

平成11年(1999年)第二回全国鈴木サミット
 鈴木一族のルーツで藤白鈴木宅を境内に有する藤白神社で『お帰りなさい、故郷藤白の里へ』と題して開催されました。鈴木三郎重家の後裔で秋田の鈴木家当主(重家より45代目・秋田県羽後町)と鈴木三郎重家の妻、小森御前の後裔、西條氏(41代目・宮城県志津川町)が、故郷となる藤白神社で杯を交わし、昔を偲びました。

平成13年(2001年)第三回全国鈴木サミット
 加賀一向一揆の本拠地・加賀の国最後の砦、鈴木出羽守が城主として、織田信長と戦った石川県鳥越城跡のある、鳥越村で開催されました。一向一揆祭りと同時開催し鈴木三郎重家と鈴木出羽守の後裔が戦国武将に扮し、輿にのり行列に参加しました。

平成14年(2002年)第四回全国鈴木サミット
 鈴木家宗家のある海南市の藤白神社で、昭和17年に没した藤白鈴木家宗家122代鈴木三郎重吉はじめ先祖代々追善法要を兼ねて開催されました。法要後熊野三山を巡りました。熊野速玉大社では宮司より『当社の元宮である神倉山に熊野権現が降臨されたときに、宇井、榎本、鈴木がお迎えしてお祀りしたと言う歴史
(熊野権現緑紀)があり、こうしたルーツがはっきりした家柄は全国的にまれである。』とのお話がありました。

平成16年(2004年)第五回全国鈴木サミット
 海南市藤白神社で三度目が開催されました。紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に登録されたことを祝って熊野三山めぐりを行いました。

平成18年(2006年)第六回全国鈴木サミット
 九州天草の鈴木神社正式参拝の旅を行い、ホテル アレグリアで交流会を行いました。熊本県天草で当時郡民の崇敬を一身に集めた初代代官、鈴木重成と鈴木重三さらに、二代代官重辰を御祭神とする鈴木神社のある天草での開催となりました。

平成25年(2013年)第七回全国鈴木サミット
 全国の鈴木さんに一人でも多く鈴木姓のルーツを知ってもらう機会として、再度海南市で開催されました。鈴木サミット&フォーラムとして、スズキ自動車の鈴木修 会長兼社長に基調講演をお願いし、参加者は二日間で延べ900人を数えました。現在の鈴木屋敷の建物は、江戸末期から明治の建築様式を残していますが、老朽化が進み今にも崩落の状況にあります。パネル・ディスカッションでは、平安時代(1150年ごろ)この地を拠点として活躍した鈴木一族の貴重な歴史史跡とともに、当時の武家屋敷を一日も早く復元することにご支援の輪を、広げることを願って閉幕いたしました。